気持ちは分かるが......

 さて、今回の主題は「被害者参加制度のあり方について」である。

 

 そもそも被害者参加制度とは、法務省のホームページによれば、「一定の事件の被害者やご遺族等の方々が、刑事裁判に参加して、公判期日に出席したり、被告人質問などを行うことができるというもの」である。そしてこの制度によって、出来ることは以下の通りである。

 

①原則として、公判期日に、法廷で、検察官席の隣などに着席し、裁判に出席することができます。
②証拠調べの請求や論告・求刑などの検察官の訴訟活動に関して意見を述べたり、検察官に説明を求めることができます。
③情状に関する証人の供述の証明力を争うために必要な事項について、証人を尋問することができます。

④意見を述べるために必要と認められる場合に、被告人に質問することができます。
⑤証拠調べが終わった後、事実又は法律の適用について、法廷で意見を述べることができます。

 

 まあ、簡単にいえば、裁判を優先的に傍聴でき(旅費も支給される)、さらに意見陳述も出来るというわけだ。この制度の目的は、当事者として事件の真実を知りたい、裁判のいきさつや判決を見守りたいという期待に応えるものであるとともに、被害者が裁判の中で陳述し被害者の悲痛さを被告人が知ることで、ひいては被告人の反省に繋げることである。この目的自体は正当なものであると感じるだろう。

(ちなみに犯罪における被害者とは、実際に犯罪の被害に遭った人のみならず、その遺族や親族などにも及び広く解する)

 

 問題はそのあり方である。

 扱う題材としては京都アニメーション放火殺人事件の第一審である。事件の概要や具体的な裁判の経過は各自でお調べいただきたい。

 2023年12月1日の毎日新聞の記事にこのようなものがある(京アニ放火殺人:京アニ公判 意見陳述 法廷に響く、遺族の子守歌 | 毎日新聞 (mainichi.jp))。被害者参加制度を利用して、意見陳述として証言台に立ったわけだが、果たしてこれは裁判としての公平さに資するものなのだろうか。

 同年同月4日に産経新聞の記事にはこのようなものがある(【京アニ公判】「弁護士も被害者をないがしろに」 遺族の怒り、被告擁護の言動にも矛先 - 産経ニュース (sankei.com))。被害者参加人の意見陳述内において、「弁護士も被告のためとはいえ、被害者をないがしろにして良いのか」、「弁護人といえども被害者の心情に配慮して活動すべきである」との陳述がなされている。(前後の文脈が分からない以上、切り取り報道である可能性は捨てきれないが、)意見陳述において、弁護の内容に批判がいくならまだしも、弁護そのものに批判が行ってしまうのは、裁判の本来の目的を希薄化することに繋がりかねない。

 

 裁判の目的は真実の究明にあり、証拠裁判主義と言われるように客観的証拠をもって事を進めていくのが裁判である。そこに情緒的な感情を第一に推し進めていくのは、そもそも裁判と相容れないのである。

 そもそも弁護というものが検察側と対立するのは当然であり、その内容は被害者にとってみれば理解しがたいであろう。そうであるからこそ被害者からしても悔しい気持ちや怒りの気持ちが芽生えるのは当然である。この気持ちは分かるが、裁判である以上、弁護も重要な司法手続なのである。「被害者の心情に配慮して活動すべき」との主張は裁判をないがしろにしかねない。

 

 今回の事件は青葉被告人が放火を行い、多数を死傷に負いせしめた事実については争いがなく、責任能力の有無と量刑について争っている。しからばその弁護内容として、責任能力がなかったこと、検察側が主張する死刑求刑は憲法において禁止されている「残虐な刑罰」にあたるとして、死刑が憲法違反であるとの弁護は一応正当である(もっとも、死刑が言い渡された訳でもないのに死刑の違憲性について争うのは今まで見たことがないかな)。ちなみに毎度毎度X(旧Twitter)で炎上する「責任能力がないと認められたら無罪になる」理屈を説明しよう。刑法における責任を簡単に言えば、他行為可能性なのである。つまり犯罪でない行為をすることが可能であったのにも関わらず、あえて犯罪行為に及んだところに責任があるとする。しからばその前提として思慮分別が働かず、物事の善悪が分からない、もしくは分かっていてもその通りに動けない者には、そもそも他行為可能性がないのであるから、刑法上の責任がないという理屈である。

 

 最後に......

 犯罪被害者の人権については、憲法上長らく議論されてきておらず、これは憲法学会の反省点である。犯罪被害者のその苦痛は一生涯続くことは言うまでもない。この気持ちをどう救済していくのかが今後の論点でもあり続けるが、その救済のTPOは問われるべきである。「被害者はつらい思いをしている」、この気持ちに同情するがあまり法本来の目的を見失ってはいけない。

 

 第一審判決(2024年1月25日)を待つ。